明治13年官営釜石鉄道小川支線の痕跡 

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明治13年官営釜石鉄道小川支線の痕跡

小川地区にあった官営の工部省鉱山寮釜石鉄道軌道の痕跡を探索してきました。

官営鉄道時代の経路図

官営鉄道時代の経路図


明治9年新橋~横浜間の鉄道に続き、日本で2番目に着工した官営製鉄釜石鉄道。(新橋~横浜間とほぼ同じ距離です。)明治13年に運行を開始し明治15年には廃止となりました。そして汽缶車、敷かれたレールも含め鉄道備品は民間へ払い下げとなり、今も残っている軌道の痕跡は多くありません。
明治16年に田中製鉄所が製鉄所を引き継ぎ、馬車鉄道、軽便鉄道、と再びレールが敷かれることとなるのですが、2度目に敷かれたレールの軌道とは少し異なるそうです。官営鉄道の痕跡を探してみたいと思います。
釜石の橋、社線の歴史*ホテルマルエHP内

目次
明治12年頃の釜石(甲子村)小川地区の地図
小川支線の橋梁は4つ?6つ?いくつだった?
木製の4つの橋はどこに?
通称ポケット
木製36.6mの橋はどこに?
小川支線のまとめ

 

◆明治12年頃の釜石(甲子村)小川地区の地図

現在ある建物を書き加えてみました。

現在ある建物を書き加えてみました。


この地図に小川支線軌道跡の記載はないのですが、明治12年頃の『釜石鉱山分局製鉄所用薪炭材苗木植付地図 』小川地区の地図です。(運行がはじまる明治13年の1年前、すでに薪炭材植付を初めていたのか?これからその計画があったのか?いずれ製鉄する際に炭は大量に必要でした。)
官営鉄道の痕跡は第1号アーチ橋梁と第2号アーチ橋梁の2つが残っており、釜石指定文化財になっています。
【国立公文書館デジタルアーカイブ】明治12年『 釜石鉱山分局製鉄所用薪炭材苗木植付地図

◆小川支線の橋梁は4つ?6つ?いくつだった?

官営鉄道の痕跡の一つ小川支線第2アーチ橋梁

官営鉄道の痕跡の一つ小川支線第2アーチ橋梁


明治15年『工学会誌第8巻釜石鉄道の記』(370ページ)に"小川支線の橋梁は第1から第4まであり、第1~第3は12尺(約3.6m)、第4は121尺(約36.6m)"とあります。
小川支線にはアーチ橋2つ以外にも、もう2つ橋梁があったようです。残りの2つは何処に?その痕跡は?
説明の碑にも4つの橋があり、アーチ橋はその中の1つとなっています。

説明の碑にも4つの橋があり、アーチ橋はその中の1つとなっています。


さらに『釜石鉄道の記』(ページ367)には 「 橋梁はハ何レモ木製ニテ~」  釜石鉄道の橋梁はすべて木製だったともあります。小川支線に残っている2つのアーチ橋はレンガ積みです??
このことに関して、鉄の歴史館名誉館長の小野寺英樹先生の『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』にすべて説明してありました。

"釜石鉄道の記にある4つの橋について、
橋梁はいずれも木製と記載があること。 第1~第3は約3.6mとしているのに対しレンガのアーチ橋2つは2m以下であること。 これらのことからアーチ橋はこの4つの橋には含まれていない。
また『工部省沿革報告』(コマ番号172)には、その形式に触れずに6つの橋があったとされていて、木製の橋4つとレンガのアーチ橋2つを合わせると符合する。レンガ橋梁は水抜きのガルバートとして扱った可能性が高い。"
とあります。

小川支線の橋は木製が4つ、レンガ(アーチ橋)が2つ。アーチ橋は『鉄道の記』の4つに含まれない。で間違いなさそうです。では その木製の4つの橋は何処に?
 
『工学会誌第8巻釜石鉄道の記』
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/01.html
『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』
https://www.jstage.jst.go.jp/
『工部省沿革報告』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784455/511

◆木製の4つの橋は何処に?

青線:川 赤線:旧道 茶線:軌道 古今地図を重ねてみました。赤丸は『歴史の道』黒丸は『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』の橋の位置

青線:川 赤線:旧道 茶線:軌道 古今地図を重ねてみました。赤丸は『歴史の道』黒丸は『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』の橋の位置


昭和63年発行の書籍『歴史の道』と前述した『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』に記載してある橋の場所に印をつけてみました。
*『歴史の道』は釜石郷土資料館か図書館でご覧になれます。
●『歴史の道』では
赤い数字は『歴史の道』「明治の初めごろの小川部落」の地図に記載されている4つの橋の位置です。『歴史の道』では4つの橋にアーチ橋が含まれています。(昭和63年頃はアーチ橋を含める解釈だったのかと思います。)
①は小浜橋付近 ②は桃ノ木渡り付近 ③と④はアーチ橋 となっています。
①の小浜橋付近。向かって左側にも崩れた橋があります。

①の小浜橋付近。向かって左側にも崩れた橋があります。


軌道と関係あるのかな?

軌道と関係あるのかな?


●『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』では
黒い数字は『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』に記載されている4つの橋の位置です。
"起点から3000m付近の道路の蛇行した地点に2カ所の橋梁" "下流側の2600m付近の沢の橋" "小川川本流を渡る橋"の4カ所とあり、略図地図はなく文字だけの説明でしたので
①と②は桃ノ木渡り付近 ③は桃ノ木渡から下流の沢 ④は7の橋
と判断して印をつけてみました。
③の下流側2600m付近の橋。小さい沢があります。

③の下流側2600m付近の橋。小さい沢があります。


ただ④が7の橋としていたのかは、ちょっと自信がありません・・・。
『釜石鉄道の記』には本線についても記載されていて
第7(7の橋)は全長283尺(約85.7m) 第8(8の橋)でも全長百尺(約30m)と長さが違います。
第4の約36・6mの橋はどれを指していたのかな?
七の橋周辺。本線からは桜木町付近で小川支線にはいります。

七の橋周辺。本線からは桜木町付近で小川支線にはいります。


真っすぐに軌道が伸びていました。築堤の名残で向かって右側が低くなっています。

真っすぐに軌道が伸びていました。築堤の名残で向かって右側が低くなっています。


◆通称ポケット

石灰貯蔵場、通称ポケット

石灰貯蔵場、通称ポケット


約3000m程進むと急カーブがあり、ホッパーのようなものがあります。この周辺が桃ノ木渡です。『歴史の道』によるとこれは石灰貯蔵場跡、この場所を通称ポケットと呼ぶようになったそうです。昭和10年頃個人事業創業の石灰工場で、山からケーブルで石灰を運搬していたとか。ですのでこれは官営鉄道の痕跡ではありません。
ポケット向かいにある石灰山。昭和30年ごろまで稼働していたそうです。

ポケット向かいにある石灰山。昭和30年ごろまで稼働していたそうです。


石灰橋。この橋を渡り山へ向かうと石灰山(通行止め)右に曲がると桃ノ木渡、左に曲がると旧道

石灰橋。この橋を渡り山へ向かうと石灰山(通行止め)右に曲がると桃ノ木渡、左に曲がると旧道


◆木製36.6mの橋はどこに?

桃ノ木渡周辺

桃ノ木渡周辺にいた古老に、この辺の様子を伺ってみました。

・子供のころまでは、急カーブの手前に枕木が残っていた。
・盛土された築堤が『!』マークの尾根の麓に向かってまっすぐ伸びていた。
・盛土は戦後の食糧難で崩して畑にした。なので残ってはいない。
・築堤の途中に川を渡る橋があった。(←肝心の数を伺いそびれてしまいました・・・。)
・その橋には橋脚の石の土台と、その橋脚を支えるための柱の土台になっていた石があった。
・橋脚の石の土台は、近所でその石による洪水被害がおきたので発破して壊した。橋脚を支えていた柱の石の土台は今も残っている。

道路からその川側におりてみると、確かに石の土台が残っていました。
川幅と道路までの高低差が当時とどう違うのかな?

川幅と道路までの高低差が当時とどう違うのかな?


残っている土台跡。(橋脚を支える柱の土台)

残っている土台跡。(橋脚を支える柱の土台)


約3・6mと約36・6m、どっちの橋が架かっていたのか?これだけでは当時の景観を思い浮かべるのは難いかな・・・。橋があったことは間違いなさそうです。

◆小川支線のまとめ

約36.6mの橋は7の橋のことだったのか?それともこの桃ノ木渡にあったのか?
そもそも4つの橋は何処だったのか?疑問ばかりが残り自分の答えは出ませんでしたが、探索しながら明治時代の空気を感じることができたような気がしました。鉄の歴史館名誉館長の小野寺英樹先生の『鉱山寮釜石鉄道の橋梁について』の結びにも「明治10年代前半に建設された煉瓦橋梁がそのまま現存しているのは貴重」としめています。官営鉄道の歴史探訪観光、歴史探偵観光を是非。皆様のお越しをお待ちしております!
小浜橋と桃ノ木渡の間にも橋が。これは4つの中に含まれる?

小浜橋と桃ノ木渡の間にも橋が。これは4つの中に含まれる?


探索中に見つけたこれはレール?

探索中に見つけたこれはレール?


 
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